【泣けて泣けてしかたなかった…】
仲間たちの間で話題になっていた『プリズン・サークル』をやっと観てきました。渋谷での上映最終日に間に合った~!
冒頭の「ウソつきの少年」の物語の朗読からすでに涙が…。
映画の舞台は日本で唯一、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを導入している「島根あさひ社会復帰促進センター」。
以前、こちらでも紹介した、今はなき奈良少年刑務所の「社会性涵養プログラム」にも通じる内容でした。
「あふれでたのは やさしさだった」寮美千子 著
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映画は4人の“加害者”のエピソードを中心につづられていきます。
そこで明らかになっていくのは、加害者達は“加害者”である前に、充分すぎるほどに“被害者”であったということ。
そして、“加害者”にただ厳罰を加えるだけでは、“被害者”を思いやる気持ちや本当の反省や後悔はもたらされないこと。
人はあまりに深い悲しみや怒り、恥辱、恐怖、絶望に直面すると、自分の感情を凍結させることで自分の身を守ろうとすること。
ただただ自分のままに受け入れられ、抱きしめられ、目を合わせて自分の話を聴いてもらうことが、大きな大きな癒しに、そして生きていくための力になること。
加害者達はみな一様に、子どもの頃から暴力、ネグレクト、いじめなどを経験しています。
そしてそれらの経験を通して、この世は危険だ、人々は敵だ、弱ければやられる、自分がこんなにヒドい目に遭っているのだから他人をヒドい目に遭わせても自分は悪くない、この世に安心できる居場所はない、誰も信じられない…などのビリーフが形成されていきます。
行き着く先は、殺人、傷害、窃盗、差別、薬物依存、詐欺などの“犯罪”です。
客観的にみれば、どうしてあの時点で誰かに相談しなかったのか?誰かを傷つける以外の方法があったのではないのか?周りの人に助けを求めればよかったではないか?と言いたくなるような状況で安易に犯罪を犯しているようにも感じられます。
物語の中心人物のうちの“加害者”のひとりはこう言います。
「物心ついてから親に抱きしめてもらったことがない。大人になってからは恥ずかしくてなかなか口に出せないけれど、どうしようもなく、誰かにギューッとしてもらいたいと感じるときがある」
決して加害者をかばったり正当化したりするわけではありません。
けれど、彼らにとってはその時点では他に選択肢がみえなかったのです。
それほどまでに深く傷つき、絶望し、孤独だったのです。
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TCプログラムを受けた“加害者”はこう言います。
「プログラムを受ける前は、自分が親や周囲の人からされたことに対して“痛い”とか“(タバコの火を押しつけられて)熱い”と感じることはあっても、悲しいとか辛いとか寂しいというような感情を感じることはなかった」と。
TCプログラムのファシリテーター(“加害者”のひとりでもある)はこう言います。
「状況の説明をするのではなく、その時の自分の気持ちや感情について話してください」と。
これってね、私がいつもメンタル不調者との面談で体験していることと同じなのです。
上司のパワハラめいた言動がきっかけとなってメンタル不調に陥った方に「その時、上司にそんな風に言われてあなたはどう感じたのですか?」と問い掛けても、多くの人は状況説明をしたり、「上司が言っていることは正しいのです」と上司をかばうような発言をするのです。
「それは考えであって感情ではないから、あなたがその時にどう感じたかを話してくださいますか?」とたずねても、多くの人は考えと感情の違いが分からないと言うのです。
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私はね、犯罪を犯してしまう人もメンタル不調に至る人も、そしてあなたや私のような一見普通に生活している人も、何ひとつ変わらないと思います。
自分が感じていること、言いたいことを受け止めて欲しい。
ただただ優しく抱きしめてもらいたい。
人から大切にしてもらいたいし、自分のことも大切にしたい。
しっかりと目を見て自分の話を聴いて欲しい。
そのままのあなたでいいんだよって受け止めて欲しい。
自分に笑顔を向けて欲しい。
自分には安心できる居場所があるなって感じたい。
そしてそれらの思いが叶わないときに、ある人は人生に悩み、ある人はメンタル不調に至り、ある人は犯罪を犯してしまう。
そこには絶対的な正誤があるわけではなく、ただグラデーションのように違いがあるだけ。
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この映画をたくさんの人が観てくれるといいな。
そして、自分の中に封印した、凍結した感情に少しでも触れ、癒やされるといいな。
正誤、善悪のようにこの世は分けられるものではなく、ひとつらなりのグラデーションのようなものだと感じられる人がひとりでも増えるといいな。
…と感じました。