最近になってようやく自分について分かってきたことがある。
私はあらゆる二元論を超えていきたいんだ。
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善悪、正否、正誤、優劣…。
生と死、病気と健康…。
目の前に起こる現実そのものにはいいも悪いもない。
ただひとつ言えることは起こってしまった現実は必然性があって起こったのだろう。
なぜなら現実に起こっているのだから。
目の前の現実に解釈を与え、いい、悪いと分けて考えるから人生が苦しくなるのだ。
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もうずいぶんと前の話になるが、学術論文を書くことが生業だった時代があった。
○○をしたら死亡率が上がる
△△をしたら病気になる
研究⇒論文を書くときにはアウトカム(結果)に死亡率の上昇や有病率などが用いられることが多い。
けれど、私にはどうしても拭いきれない疑問があった。
「人間は誰しもいつか必ず死ぬのに、人間の死亡率は100%なのに、どうして死なないようにばかり考えなければならないのだろう?」
「どんなに努力をしていても病気になってしまうことはあるのに、どうして病気になることは不幸、というようなメッセージ性を与えるような研究が評価されるのだろう?」
「人間はいつか必ず死ぬのだから、今この瞬間をどう生きるかの方が重要なのではないの?」
「病気になることと幸不幸はまったく関係ないのではないの?」
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もちろん病気になると不便なことはでてくるだろうし、身近な人の死は悲しくもあるだろう。
けれども、それらの体験を通して、気づくこと、学ぶこと、得ることも必ずあるはずなのだ。
自分の身に降りかかったことを「悪いこと」として排除する方向にエネルギーを向けるよりも、目の前の現実を受け入れて、そこから気づき、学ぶ生き方をしていきたいと感じたし、そういう生き方を伝えていくことをしたいと思った。
どうしてもこんなことが頭の中でモヤモヤして、そのモヤモヤは大きくなるばかりだったので私は生き方を変えた。
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あらゆる出来事、事象をいい・悪い、正しい・間違っている、幸・不幸、勝ち・負け、優・劣…と果てしなく分けて考えることが人生の苦しみを生むのだ。
分ける思考が果てしなく問題をつくり出すのだ。
この瞬間はあるべくようにしてある。
人生が複雑なのではない、あなたが人生を複雑にしているのだ、人生は驚くほどシンプルなのだ。
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あらゆる二元論を超えていきたい。
まずは自分の中に存在する「分かつ心」に気づき、出来事を判断せずにあるがままに観てゆくこと。
自分の中の分断を統合し、調和させていくこと。
その積み重ねが世界を調和させていくことにつながっていくのだ。