ウエタニミレイです。
ここにも書いているのですが、私がアドラー心理学に出会って10年以上が経ちました。
この間、ガーッと集中的に講座や研修を受けたり、立て続けにアドラー関連の本ばかり読んでいた時期もあれば、アドラーの学びから少し離れて他のことを学んでいた時期もあります。
これまでに自分の学びが進んだと感じた瞬間が何度かあるのですが、ここ数年で大きく変化したと感じるのは自分でアドラーをお伝えするようになったことと、学びの段階が同じぐらいの仲間と協力的な学びの場を持つようになったことです。
自分のこのような経験を踏まえて、自身でもアドラー心理学勉強会『協力的に生きるレッスン』を開催するようになりました。
以前から勉強会を開催しようかという考えはあったのですが、「毎月なんてできるかな」という思いがあったり、「自分にできるかな」と自信がないことを口実にしたりして、なかなか勉強会をスタートさせる踏ん切りが付きませんでした。
今思うとこの時の私は「自分のことしか考えていない」状態でした。
ところが、昨年、学びのレベルがグッと深まるチャンスがあって、今まで私がボンヤリとしか理解していなかったことが明確になってきました。
それは、アドラー心理学の基盤となる思想である「共同体感覚」についてです。
アドラーは1918年に軍医として参戦していた第一次世界大戦から復員します。
復員してから仲間がつどうカフェに姿をあらわしたアドラーに、仲間のひとりが「何か新しいことはありますか?」とたずねました。
アドラーは「世界が今必要としているのは、新しい大砲でも新しい政府でもなく、共同体感覚だ」と答えました。
アドラーは悲惨な戦争を体験する中で、人類が争わずに仲良く平和に暮らしていくためにはどうすればいいのか、ということをシンプルに考え、その結果として人類には「共同体感覚」が必要だ、という考えに至ったのです。
共同体感覚とは分かりにくい概念であり、色んな人が色んな風に説明していますが、私はアドラーが第一次世界大戦を経験し、そこで感じたことから生まれた概念である、という背景に意味があると思うのです。
別の表現をすると、共同体感覚とはみんなが仲良く協力して暮らしていくために、
目の前の出来事に対して
「これはみんなにとってどういうことだろう。
みんながしあわせになるためには私には何ができるだろう」
と考える視点です。
共同体感覚は英語ではCommunity FeelingとかSocial Interestと表現されていますが、外に向けて、社会に向けて関心が開かれているということが非常に重要です。
共同体感覚の反対は自己執着であり、「これは私にとってどういう出来事だろう。私の幸せのために私には何ができるだろう」と考える視点です。
私は共同体感覚と自己執着を説明する際に、「主語を“I ”から“We”に転換する」と表現するのですが、「みんなのために、社会のために、世のため人のために自分に貢献できることはなんだろう」と考える視点が共同体感覚なのです。
それまではボンヤリとしか理解できていなかったアドラー心理学の思想である共同体感覚について、外に向けて、社会に向けて関心が開かれていることの素晴らしさに改めて気づき、私が勉強会開催をためらっていたのは自己執着、つまり主語が I の自分のことしか考えていない態度だったのだと納得することができました。
そして、仲間である他者のために自分が貢献できることを考えた時にいても立ってもいられなくなって勉強会開催を決断しました。
先週末に『協力的に生きるレッスン』の第3回目を開催し、共同体感覚について熱く語ったのですが、アドラー心理学が素晴らしいと感じるのは、基盤となる思想があることだけでなく、自分の生き方を協力的な態度に変えていくための、
つまり「これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるためには私には何ができるだろう」と考えられるようになるための実践的なメソッドが確立していることだと感じます。
4月5月はお休みしますが、6月も継続してレッスンを続けていきますよ~!!!