「人はみな居場所を求めて生きているのですよ」と話している時に強い口調である人が言った。
「居場所ってなんですか?」
強そうに見える人
成功しているように見える人
イヤなことがあっても「仕事だから」と弱音を吐かない人
できて当たり前、とがんばってきた自分をねぎらってあげることをしない人
…あぁ、これって私自身の姿だ。
私はずっと自分には共感力がないと感じてきた。
家族からも「あなたは人の気持ちが分かっていない」と言われていた。
表面的には相手の気持ちに寄り添うことはできても深い部分ではどこか冷めた自分がいた。
そして、対人援助職なのにこんな自分ではダメだと自分を責めていた。
でも、それは私が自分自身の心にしっかり共感してあげていなかったから。
心の奥底に閉じ込めた深い悲しみ、つらさに蓋をして、見ないようにして、気づかないふりをして生きてきた。
悲しいことがあっても、自分のネガティブな感情をしっかりと味わうことなく、目の前の現実に対処することで「うまく」やってきた。
表面的には「うまく」いっているのに、心の芯の部分は凍りついていた。
そして、人のつらさ、悲しみに寄り添えない自分を責めていた。
でも、自分自身の心の深い悲しみや怒り、つらさにしっかりと寄り添えていないのに、他の人の心に寄り添えるはずなんてない。
心の芯が冷たく凍りついていたのは、自分の悲しみを凍りつかせていたから。
自分の奥底の深い悲しみにつながった時、悲しみを抑えて必死に生きてきた自分が本当にかわいそうに思えた。
悲しみを見ないようにして、分厚い仮面をつけて、好きでもない衣装で着飾って、表面的には笑顔で生きていくことしかできなかった自分を「がんばってきたね」と抱きしめてあげたくなった。
つらい時も、悲しい時も「こんなことはたいしたことないこと」と自分の感情を置き去りにして、懸命に「うまく」やってきた自分が健気で愛おしく思えて泣けてしかたなかった。
泣いて泣いて、涙が枯れるほど泣いたら、自分の中に愛が生まれてくるのを感じた。
強ぶっている人の中の悲しみが伝わってくる気がした。
感情に蓋をして、たくさんの鎧を身にまとって社会で戦っている人々のつらさ、苦しさが感じられるような気がした。
本当に強い人は自分のネガティブな心にしっかりとつながれている。
本当に強い人は自分の中の悲しみを味わい、自らを慈しんでいる。
自分の深い悲しみとしっかりつながると、そこにはひっそりと慈悲の心がうまれてくる。
私はあの人のために祈る。
自分の心と、悲しみとつながれますように。
心に愛が生まれますように。