COVID-19が私たちに問い掛けているもの

政府や都から外出自粛要請が出た2度目の週末。

報道で見る限り、繁華街は先週末よりも人影がまばらだったようだ。

今月の月例勉強会のプログラムを考えていて、前回1月に行った勉強会からたったの3ヶ月で社会が激変したことに改めて驚いた。

以前の平穏な生活に早く戻りたい、という声も聞くけれど、ビフォーコロナも社会には様々な問題が山積していた。

人はそれぞれに不安や不満を抱え、「もっとこうなったらいいのに」という思いを胸に抱きながら生きていた。

決して安定した平穏な生活なんかではなかったのだ。

私が長く面談していたメンタル不調の方は、「とにかく毎日の長時間の通勤が苦痛なんです」といつも言っていた。

感染防止のためにテレワークができるようになって、家族で過ごす時間が増えて、睡眠時間が増えて、満員電車で通勤しなくてよくなって、喜んでいるだろうな。

 

「何に不安や不満を感じるのか」の対象が変わっただけで、実は私たちはコロナ以前もずっと不安定な日常を生きていたのだ。

そして、COVID-19は私たちに「そもそも○○とは」のような根源的な問いを突きつけてくるように感じてならない。

私がCOVID-19によって向き合わされた、一番大きな命題だと感じていることは「人はいつかは必ず死ぬ」ということだ。

どんなに医学や科学技術が発達しても、人は未知のウイルスには時に無力なのだ。

私たちは、明日も今日と同じような平穏な日が続くに違いないという幻想の中に生きているけれど、そんな保証はどこにもないのだ。

平均寿命はだいたい80年だから40歳になったら人生の折り返し地点だ、なんて当たり前のように考えるけれど、その先40年人生が続くかなんて誰にも分からないのだ。

 

今朝の新聞に、ある日、交通事故で高校生の娘を亡くした女性の話が載っていた。

思いも掛けないようなことがある日突然起こる、という意味では交通事故もCOVID-19もそんなに大きな違いはないような気がする。

現代はとかく「死」というものを日常で感じにくくなっていると言われて久しいけれど、私たちの死亡率は100%なのだ。

そしてどんなに理不尽に感じるようなタイミングであったとしても、それがその人の人生のタイミングなのだ。

 

私が好きで学んでいるゲシュタルト療法には実存主義という哲学がある。

その基本テーゼはサルトルが提唱した「実存は本質に先立つ」という概念だ。

実存主義は、あらかじめ人間の本質が決まっているわけではなく、私たち人間は自ら本質を選び取る存在なのだ、と考える。

だからこそ人間は選択の自由を持っているのだ。

人間は生まれた瞬間から「死」という宿命を背負っているが、その死の恐怖に直面しながら、瞬間瞬間に生きることを選択している存在なのだ。

「死」は常に選択肢としてあるにも関わらず、今この瞬間は自ら主体的に生きることを選んでいる、と考えることで、そこに生きる主体としての自分自身の責任が生まれてくる。

ただなんとなく生きるのではなく、自ら生きると選択したこの人生をどう生きるのか、という意識的な生き方ができるようになる。

 

COVID-19は、私たちが平穏だと感じていた、明日は今日の延長線上にあると思い込んでいた日常の中に、一気に「死」という概念を持ち込んだ。

現在の感染の拡がり具合をみると、どんなに気をつけていても、あなたも私も、いつ感染するか分からない。

不安に絡め取られてしまうのは簡単だ。

自分の中の不安が大きくなってしまうときは、「今、この瞬間は自ら主体的に生きることを選んでいる」ということに注目したい。

明日かもしれない、何十年先かもしれない、けれどもいつか必ず訪れる「死」を迎える日まで、今、この瞬間をどう生きるのか、ということに意識的でありたい。

COVID-19は私たちに「それで、あなたはどう生きるのですか?」「あなたは意識的に目覚めて生きていますか?」ということを突きつけているような気がしてならない。

 

今月の勉強会では“不安”について、こんな切り口で話をしようと考えています。

オンライン開催! 2020年4月18日 (土) 『自分らしく生きるレッスン』

 

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