思考は現実ではない

こんにちは。

アドラー×ゲシュタルトをベースに心の学びをお伝えする

“はたらく人の自己受容のためのサポーター” 上谷実礼です。

思考は現実ではない

私たちは、

「私は日本人だ」

「私は女性だ」

「私は妻だ」

「あの人は私の夫だ」

「これは私の子どもだ」

「私の仕事は○○だ」

「私は社長だ」

「景気が悪い」

「上司はいじわるだ」

「子どもが勉強しない」

というように、思考を使って概念として外界を認識している。

でも、頭で考えていることは、妄想であって現実ではない。

銀行口座に残高がいくらある、というのも単なる数字という概念であって、現実ではないのだ。

サルトルの言う「実存は本質に先立つ」という言葉の意味がやっと肚に落ちた気がする。

単なる概念としての「本質」には意味がなくて、

「今ここ」にこそ「現実」が「本当のこと」があるのだよ。

 

 

それでは、現実とは何か?

現実とは、私が、あなたが、「今ここ」にいて、

呼吸をしていること、

五感を使って感じていること、

自分が感じる気持ちや体の感覚、それだけなのだ。

「今ここ」から離れて思考することは、すべて現実ではない。

コミュニケーションがうまくいかないのは、

「感じていること」ではなくて「考えていること」を伝えているから。

それはなぜかというと、考えていること、思考は本当のことではないからだ。

そっかー、だから「感じていること」を伝えることでしか、

コミュニケーションは成り立たないんだぁ。

 

 

私は常々、アドラーの勇気づけと

ゲシュタルトのコンタクトは同じことだと感じてきた。

私たちにとって、何を所有するとか肩書きがどうとかではなく、

所属感と貢献感を持てることが幸せ。

そして、所属感と貢献感を持てると、

自分には能力があり、価値があるという感覚が持て、

その感覚のことを「勇気」という。

「勇気」は課題を協力的に乗り越えるためのガソリンのようなものだ。

つまり、自分や他者が所属感と貢献感を持てるようにかかわることが勇気づけ。

勇気づけとは単に相手をいい気持ちにさせることではないし、

「ありがとう・嬉しい・助かる♡」と表面的に言葉がけすることでもない。

勇気づけとは現実をそのままに直視するように促すことでもあるんだ。

思考の妄想から離れて、現実を虚心坦懐に直視すると、

実は自分には能力も価値もあり、居場所があって仲間もいると気づけることもある。

現実を直視することって、つまりコンタクトと同じじゃん。

だから、五感を使って現実にしっかりとコンタクトすることは勇気づけになるのだ。

ちなみにアドラー心理学でいう「能力」とは自己管理の能力と貢献する能力のこと。

「今ここ」の現実にコンタクトするためには思考から離れた「気づき」が大切。

そして目覚めて気づくためには瞑想が有効。

野田先生が「瞑想的に生きる」とおっしゃっていた意味が分かるなぁ。

 

 

目の前の人が「この人は自分の夫だ」と認識するからこそ

「夫なのにどうして●●してくれないの?」とか

「夫婦として○○であるべき」と考えてしまう。

「子ども」とか「家族」ということも概念でしかない。

そうではなく、「今ここ」に、目の前にいる人を

五感を使ってしっかりと感じてみよう。

役割意識から離れて、ひとりの人として、

まずはしっかりとコンタクトしてみよう。

それが人を大切にするということ。

うーん、まさに相互尊敬であり、我-汝とはこのことか!

もしも、実物や写真を見ないで、配偶者の似顔絵を書けないとしたら、

相手をしっかりと見ていないということ、リスペクトできていないということ。

相手をしっかりと見ずに、頭の中だけで概念をこねくり回すから、

人間関係が作れないのだ。

「今ここ」に一緒にいて、五感を使って感じて、

自分の中に湧いてくる感情や体の感覚だけが現実なのだ。

 

 

私はほんとーに、「今ここ」にしか興味がないんだな。

なにかの出来事に対峙して、自分が感じたことに気づき、

「私はこう感じた」と表出することで体験として完了させる。

これが私にとっての書くということ。

これまでCOVID-19についてほとんど書いてきていない。

考えるところは色々とあるし、自分なりに情報を入れているつもりだし、

出会う人には折に触れて自分なりの考えを伝えてはきたけれど、

どうにもこうにも「書く」というエネルギーが出て来なくて、

COVID-19について書くことに興味が持てなかった。

なぜ興味が持てないのかが自分でもやっと分かった。

それは、昨年の3月から、私の「今ここ」の現実は何も変化していないからだ。

もちろん、生活に占めるオンラインの割合が増えたとか、

マスクとか消毒とか、人に会わなくなったとか、

飲み会がなくなったなどの環境の変化はある。

けれども、「今ここ」にいて、呼吸をしていること、

五感を使って感じていること、

自分が感じる気持ちや体の感覚が現実だということにはなんら変化がないのだ。

「あなたは何をワケの分からないことを言ってるの!?

臨床現場でがんばっている医療者を始めとして、

懸命にCOVID-19と戦っている人達への感謝はないの!?

自分が、家族が感染したらどうするつもりなの!?」

というようなお叱りを受けるかもしれない。

臨床現場や保健所や霞ヶ関には

顔も名前も知っている知人友人が大勢いるので、

「大変だろうな」と想いを馳せることはできるし、

「ありがたいな」とも思うし、

「自分にできる対策はしよう」とは考えるし、

職業人として関係者に必要な情報を伝えることはするし、

もしも自分や家族が感染したら必要なことを淡々と行うだろうけど

私が「今ここ」にいて呼吸をしていること、

五感を使って感じていること、

自分の中に感情や体の感覚が湧いてくること、

つまり「現実」は1年前も今も何一つ変わっていないのだ!

だからこそ不安も心配もないだけでなく、楽観もない。

「国民はもっと気をつけた方がいい!」と啓蒙する気にもならないし、

「COVID-19なんて大したことない」とアピールする気にもならないし、

大変だなとか面倒だなとか不便だなと思うことはあっても、

「職業人」としての私が仕事として必要なことを行うことはあっても、

根本的なところの「私」は何一つ変わっていないのだ。

こういうことを書くと「医者なのに、なんて人!」とバカにされて

読者解除する人が多発するかな。

でも、私は自分で今の生き方を選んでいる。

他の人もそうだろう。

私は他の人の生き方や選択にとやかく言わない。

私の生き方や選択にとやかく言われたくもない。

読者解除ぐらいは、まぁ受け入れよう。

 

 

「今ここ」から離れた思考は現実ではない。

「この人は私の夫」だというのも概念でしかない。

目の前の人のそのままにコンタクトして「今ここ」にともにいること。

それが人と人とが出会うということ。

そんな風に人とともにいたい。

それが相互尊敬であり、我-汝としてあるということ。

そして、「今ここ」の瞬間に目覚めている自分でいたい。

 

 

現代の社会は主に地の時代に、思考を基にして組み立てられたもの。

生きていくために必要なことは、本当はほんの少しでよくて、シンプルなんだ。

天外伺朗さんは衣食住以外に生きるために必要なことは

祈り、踊り、歌だけだ、というようなことをおっしゃっていた。

必要以上に欲を駆り立てることで、

生きていくために必要ないモノをごちゃごちゃと並べ立てているのが現代の社会。

でも、思考は現実ではないし、本質ではない。

現実じゃない世界でやりたくもないことはできないよね。

だからこそ、風の時代を生きる若者は

そもそも地の時代の先人たちが作り上げた

あれやこれやの諸々に興味が持てないんだろうな。

もっとシンプルに生きたい。

感性で生きたい。

「今ここ」の現実を生きたい。

そんな風に感じるからこそ、

今までの“大人”には理解できないような若者が増えているのだろう。

 

 

あー、またMATRIXが観たくなってきた。

サルトルが読みたくなってきた。

 

 

今日は自分の中から出てくることを一気に書いたので、

長文なのに文章の順番も支離滅裂で、

推敲していないので分かりにくいかもしれない。

でも、伝わる人に伝わればいいや。

読者解除もドンと来い。

あ、でも、いつも読んでくれてありがとうございます。

読んでもらえて嬉しいし、ご縁に感謝しています。

ホントは読者解除されると寂しいです。

自分の承認欲求に悶絶するw

 

 

自分的にスゴいことに気づいちゃった気がする。

今まで学んできたことに横串が指されて、点と点だった知識が有機的に構成された気がする。

私にとっては、人に伝わるかとか、人にどう思われるかよりも、

自分が感じて気づいたこと、自分の中に湧いてくることの方が大切だわ。

 

 

今日は自分のために書きました。

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