“寂しさ”と、ともにある

“寂しさ”と、ともにある

ちょっとしたきっかけがあって、自分の中にものすごく寂しさを感じている。

あぁ、寂しいなぁ。

私はひとりだなぁ。

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若い頃はこの寂しさを人に埋めてもらおうとしていた。

結婚したのだって、「この人なら私を分かってくれる」「この人といれば、もう私は寂しくない」と思って選択したことなのに、夫が私の寂しさを埋めてくれることはなかった。

夫はものすごく私のことを理解してくれるし、私のことを大切にしてくれるし「ミレイはよく頑張ってるよ」「ミレイは今のままでいいよ」って言ってくれるのにもかかわらず。

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そして、私が人の寂しさを埋めることができると思っていた。

なんて傲慢だったのだろう。

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私の寂しさの根っこには、たぶん私ひとりが抱えているものではなく、両親やそのまた両親、私の家系が抱えてきているものがあるんだろうと思う。

そんなことも全部ひっくるめて、とても寂しいなぁと感じる。

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その寂しさは私が引き受けないといけないこと。

それを引き受けることが私の命の責任。

そして、そんな寂しさがあるからこそ、人とつながりたいと渇望し、そのためにもがき、努力し、自分に向き合うプロセスに取り組むことになるのだろう。

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私の先生は言った。

「孤独は人生の肥やしになるよ」

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ホントにそうだね。

私は寂しいよ。

だからこそ人とつながりたいともがいているよ。

でも、その寂しさは人に埋めてもらうものではないんだよ。

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“寂しさ”と、ともにある

それが「人として生きる」ということなのだろう。

 

 

 

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